記事詳細

第二回 コピーを学ぶこと、コピーから学んだこと

三島邦彦

コピーを学ぶって、なんだ

 

人は誰でもコピーライターに向いている部分がある。

けれどプロのコピーライターになる人はそう多くはない。

 

なんだか難しそうで大変そうな仕事だと思われているのかもしれない。

才能がものをいう世界だと思われているのかもしれない。

たくさん勉強しなければいけないと思われているのかもしれない。

 

そのどれもが、そうでもあるし、そうでもない。

 

コピーライターというのは名乗ればいいだけの職業なので誰でもいつでもなることができるし、何かを学ばなければいけないということはない。

 

だけれど、学び続けることが必要な仕事でもある。

学ぶことで才能を乗り越えることもできれば、

学ぶことそのものに喜びや楽しみを見出すこともできる。

 

日本語は書けるがコピーは書けないというのはどういうことなのか。いざコピーを書こうとした時にうまく書けないのは何が足りないのか。

 

今回は、コピーを学ぶということについて考えてみたいと思います。

身もふたもないことを言えば、自分なりに研究するしかない、というのが一つの結論ではありますが、僕なりに学んできたことと学び方をお伝えしますので、参考になれば幸いです。

 

 

コピーライターの力とは。

 

プロのコピーライターたちには共通した力のようなものがあるように感じます。僕の場合、コピーライター1年目の時にコピーに必要な力は3つなのではないかという仮説を立てて以来ずっと、その3つを鍛えることを意識して過ごしてきました。そしてその仮説は今も揺らいでいません。

 

コピーに必要な3つの力。それは洞察力、表現力、説得力だと僕は考えています。

 

洞察力がなければ的外れなものになる。

表現力がなければつまらないものになる。

説得力がなければ世に出ないものになる。

 

この3つの力のバランスによって、どのようなコピーライターになるかが決まります。

コピーライターの個性とは、この3つのベクトルの長さだとも言えます。

 

伸ばしたい力ははっきりしている。これらの力を伸ばすためにどうしたらいいのか。

これが僕なりのコピーを学ぶ指針です。

 

洞察力を鍛えるために、何をすべきか。

表現力を鍛えるために、何をすべきか。

説得力を鍛えるために、何をすべきか。

 

この3つを鍛えればうまくいく、というよりは、こういう風にコピーライターに必要なものはなんなのかを自分なりに決めて、それを手に入れるという仮説と実験の繰り返しがコピーを学ぶということなのではないかと思います。いかにも回りくどいのですが、その回りくどさにこそ本当の学びがあるような気がします。

 

コピーを書いて世に出す、という目的に立ったときに、自分が得意なことと自分に足りないものを見極めてそれを伸ばしたり補ったりする。その果てしない繰り返しです。

 

昔から、人を成長させるものは本と旅と人だと言われてきました。当たり前のことではありますが、これはどうしたって正しい。読書も、旅行も、人と会うことも、3つの力をバランスよく磨くことができます。ただ、漫然と読書をして旅行をして人と会っていたらコピーが上手くなりました、ということにはならない。そこには学ぶ態度のようなものが必要なわけです。

 

旅についていえば、『忘れられた日本人』で知られる民俗学者の宮本常一が父親から教わったこととして書いている文章が参考になります。少し長いですが引用します。

 

私の父はただの百姓にすぎませんでした。それも別に学問があるわけでもなく、まったく貧しい百姓だったのですが、私のためにはよい先生でもありました。父は私がふるさとを出ていくときに「旅はうかうかとしてはいけない。汽車が駅へついたらそこに積まれてある荷物にどんなものがあるかをよく気をつけて見よ。それでそのあたりの産業がわかる。また乗りおりのお客のしたくで、そのあたりの村が富んでいるか貧しいかもわかる。汽車の窓から見る家々によっても、開けているか、おくれているかを知ることもでき、富んでいるか、貧しいかもわかる。田畑のできぐあいで、まじめにはたらいているかどうかもわかるものだ。旅をすることによって、いろいろおしえられるであろう」といってくれました。

(宮本常一『日本の村・海をひらいた人々』ちくま文庫)

 

本を読むこと、旅をすること、人と会うこと。それらを単に楽しむだけではなく、徹底的な注意深さ、学ぶ意識を持つところから、すべてははじまる気がします。

 

この記事は
ADBOXプラン会員限定コンテンツです。
残り4,577文字

会員登録またはログインすると、続きをお読みいただけます

おすすめ記事