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気づいたら、アメリカでCDをやっていた男の話①

曽原剛
♪ボクラノジユウヲ〜 ボクラノセイシュンヲ〜 オオゲサニイウノナラバ〜♪
カラッと真っ青な空が広がるロサンゼルスの週末に、
鼻歌を口ずさみながらドライブしていると、今でもふと思う。
なんで僕はここにいるんだっけ?
はじめまして。曽原剛(そはらごう)です。
これから数回にわたって、海外(アメリカ)でクリエイティブとして働くこと、
そして生きていくことについて、お話ししていきたいと思います。
初回の今回は、自己紹介も兼ねて、
帰国子女でも留学経験があるわけでもない私が、
なぜこんな人生を送ることになったのか、
その経緯をダラダラと書かせていただきます。
- 博報堂時代 -
今ではもう知らない人のほうが多いかもしれませんが、
「ノストラダムスの大予言」に世間が沸いていた1999年に、博報堂に入社しました。
営業志望で入社したものの、予想外にもコピーライターとして
キャリアをスタートすることに。
しかも配属されたのは、当時の博報堂の看板チームの一つだった「笠原チーム」。
笠原チームリーダーを筆頭に、前田知巳さん、永井一史さん、佐野研二郎さんなど、
錚々たるクリエイターたちに囲まれての船出でした。
(ちなみに、前田さんは私の配属初日に独立されましたが・・・)
博報堂では、新人コピーライターが毎年先輩のもとで修業する「弟子入り」スタイルが
基本でしたが、なぜか私の代では「チーム配属」へと変更に。
特定の先輩に付きっきりではなく、チームに入ってくる様々な案件に
様々な先輩のお手伝いをすることから、私の新人生活は始まりました。
当然、看板チームの笠原チームには、「宝島社」をはじめとした
面白い仕事が集まってくる。
末端の新人コピーライターとして、時代を代表するようなプロジェクトに
参加させてもらったことは、最高のトレーニングでした。
しかも、朝日広告賞やTCC新人賞を1年目で受賞することもできたので、
広告賞にも恵まれたスタートだったのです。
そんなこんなで、わりと順風満帆なコピーライター生活を博報堂で送り、
3年、4年、5年目になる頃には、
ホンダやキリンなどの大きな案件も任せてもらえるように。
激務ではあるものの充実した毎日を過ごしていました。
でも、ふとした瞬間に考えるようになったんです。
「このままずっとこういう生活を続けるのかな?」
「CDになってチームリーダーになって、ゆくゆくは局長とかになっていくのかな?」
別に、それが嫌なわけじゃない、けど、それでいいのかはわからない・・・
なんて、漠然とした未来への期待と不安が入り混じった気持ちを抱き始めていました。
そんなとき、人生の転機となる二つの出来事が起きたのです。
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